三味線漫談家として活躍する藤本 芝裕(ふじもと しばひろ)さん。
浅草演芸ホールや新宿末広亭など、数々の寄席に出演されています。衣装の着物の帯には芝裕さん手作りのちりめん根付がワンポイントに。三味線漫談から手作りまで、いろいろなお話を伺いました。
――三味線漫談について教えてください。
寄席で、三味線を使って端唄や小唄を披露する「音曲」という芸なのですが、私は唄のおもしろさと共にお客さまへ笑いのある芸を届けたいというのがあって、おしゃべりやモノマネを交えた三味線漫談をしています。いろいろな寄席で披露したり、自主興行を行ったり、コロナ以前は屋形船のお席に呼んでいただいたりしていました。
――ご結婚前には、お笑いタレントとしてテレビなどでもご活躍されていたんですよね。三味線漫談家になったきっかけは何だったんですか?
趣味で三味線を始めたんです。駅前のカルチャーセンターみたいなところで(笑)。それで三味線の魅力にはまり、藤本流の門下に入れていただき師範となりました。その後、タレント時代にやっていたおしゃべりと三味線を融合した三味線漫談家として活動するようになりました。
――カルチャーセンターからスタートってすごいですね。
興味を持ったら、なんでもトライしたくなるんです。最近はコロナ禍の自粛中に、トランペットを買ってみて。すぐにできると思ったのに音が鳴らなくて、いま音楽教室に通って若い先生に教えてもらってるんですよ(笑)。
――本当に何にでもパワフルに取り組まれるんですね。手作りを始めたきっかけは何ですか?
じっと何もしないというのは苦手ですね。手作りも夜時間がある時、夫婦2人でテレビを見ている時などに、ずっと手を動かしてやっています。根付も気付くといっぱいできてる。
手作りは、祖母や母が手芸好きということもあって、子どもの頃から大好きでした。流行っていたフェルトのマスコットを作ったり手芸クラブにも入っていて。短大も手芸専攻でした。
――ずっと手作りがお好きだったんですね。ではさくらほりきりを知ったきっかけは?
祖母がさくらほりきりの押絵にはまって、浅草橋に行くならお店で買って来てって頼まれて、何十枚も色紙の商品を買ってました。ある時、私も干支を作ってみて、家族や友人に差し上げたらこれがすごく喜ばれて。来年もその次もって、期待されるようになり、そこからずっと作るようになりました。干支の絵馬や、季節ごとの押絵も作っていますが、なによりちりめん根付をたくさん作っています。
――寄席などに出演される時は、お着物にちりめん根付を付けられているんですよね。
そう、季節感を出すために、年始は干支から始まって、春の花や夏の風物詩、ハロウィンやクリスマスと楽しんでいます。着物だけでなく、大切な三味線を入れているケースには「番犬」として犬の根付を付けたりしてますよ。その写真をSNSにあげてるうちに「譲ってほしい」というお声をたくさんもらうようになって、独演会では「芝裕お手製バザー」も開催してます。あとは、お世話になっている方へも年始のご挨拶として、毎年干支を差し上げています。
ある先輩は、差し上げた干支の根付を鍵に付けてくれてるんですが、だんだん増えてしまって、もう十個ぐらい付いていて重そうなんです(笑)。でも「捨てられないんだよ」って言ってくれて、もうすぐ干支も一周するから「そのぐらい長い付き合いなんだね」とも言ってもらえてありがたいんです。
帯には秋らしい月うさぎ
三味線を守る番犬
――芝裕さんお手製のものが多くの方の元にあるんですね。
そうですね。バザーの時もすべて自らお客さまへ手渡ししています。「芸も手渡し」といってお客さまへは、手渡しするように芸を届けるんだと言われるんですが、手作りの品も一緒ですね。それにたまに「根付紐が取れちゃったんです」って持って来られる方もいて。その時はこちらで直して次の公演の際にお渡しするようにしています。
――アフターサービスまで?
そうやって繋がりができるのがありがたいし嬉しいです。手作りのものって、ただの物ではなく「あの人に作ってもらった」とか「一緒に作った」という思い出があって、作る側も何倍もの思いや愛情を込めることができる。それも本当に手作りの良さだと感じています。
東京都江戸川区出身、千葉県船橋市育ち。文化学園大学短期大学部服装学科(手芸専攻)。 1988年漫談「相馬ひろみ」でデビュー。2005年「藤本芝裕(しばひろ)」を襲名。2007年三味線漫談家に転向。2022年9月公益社団法人落語芸術協会新協会員となる。